カンボジア(CAMBODIA)

 バイクタクシーで、トゥール・スレン博物館に到着した。トゥール・スレン博物館は、元は高校だったのだが、ポル・ポト時代に反革命分子(スパイ)の容疑をかけられた人々の強制収容所として使用され、拷問による尋問の場となっていた恐怖の館である。当時、S21(Security Office 21)と呼ばれたこの収容所には約2万人が収容され、生きて出られたのはたったの6人だったとか。現在はポル・ポト派の残虐行為を後世に伝えるための博物館として人々に公開されているのだが、それにしても博物館という呼び名にはちょっと抵抗が…。

 棟は全部で4つある。入口に向ってコの字型になっており、正面に並んでB棟とC棟、左手にA棟、右手にD棟となっている。まずは、A棟から見学した。3階建てだが、2階より上には行けないようになっているので、1階にある部屋の一つに入ってみる。10畳くらいの殺風景な部屋の真ん中に鉄ベッドがポツンと置かれてあり、発見時のものであろうか、そのベッドの上に死体が横たわった写真が壁に掛けてあり、こういう部屋が続いていた。

 続いて2つ目のB棟、ここは1階の広い部屋一杯に多くの収容者達の写真が並べてあった。スパイ容疑を掛けられて収容されたこれらの人達の殆どは無実だったという。つまり、この写真の人達は無実の罪ながら殺されてしまった人達ということになる。こちらを見つめる様々な顔を見ているうちに、気持ち悪くなって吐き気すら覚えた。その他にも、発掘された大量の人骨など、虐殺の痕跡の写真も並べてあった。


*左:バッテンが書かれたポル・ポトの胸像 右:NO MOREと書かれた踊り場

 3つ目のC棟は、レンガで区切られた独房の跡である。1畳くらいの広さで、鉄の足枷が残されていた。このC棟だけは上の階まで上がることが出来たのだが、途中階段の踊り場に溜まっていた砂の上に、大きく「NO MORE」と手で書かれていた。NO MOREなのは全く同感である。そういえば途中ポル・ポトの胸像が置いてあったが、これも観光客の仕業であろうか顔にマジックでバッテンが書かれてあったりもした。

 最後のD棟は、実際に使用された拷問の道具とその使い方を描いた絵が陳列してあった。縄で逆さ吊りにして水を溜めたドラム缶に突っ込んだり、仰向けで手足を縛り付けた状態でサソリを放ったり、他には幼児を空中に放り投げて射撃をしたりと、全くもって色々考えるものだ。そして最後の最後に登場した髑髏地図、これには驚いた。壁一面に描かれたカンボジアの地図に貼り付けられた無数の骸骨。勿論、ホンモノ。どういう意図でこんなものを設置したのか疑問で、その場に暫くの間立ち尽してしまった。ポルポトの殺戮はカンボジア全土に及んだということが言いたいのであろうか?ちなみに帰国して1ヶ月も経たないうちに、この髑髏地図は悪趣味だということで撤去されたらしい。まあ、見ることが出来てラッキーだったというべきでしょうか?


*左:拷問道具の一部 右:撤去されてしまい今は無い髑髏地図

 それにしても、どうしてこういう事態になってしまったのか?物の本によれば、権力を掌握したポル・ポトは、四ヵ年計画と称して急進的な共産化を推し進めたのだが思うように事は進まず、その原因を敵(スパイ)の存在だと責任を転嫁し、その後は歯止めがかからなくなってしまったということらしい。人の狂気を垣間見た気がした。暑い暑いカンボジアで、唯一寒気のする場所であった。

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